羽鳥塾の稽古6大泣き

レッスンを行っている最中に、生徒が「泣いてしまう」ことは珍しくない。
もちろん私のアドバイスに対しての反応として起こる現象である。理由は大きく分ければ二つ。

①頭で分っているのに(理解している)、出来ない自分に腹立たしく、悔しくて泣く。
 
②「心の開放」が出来ない自分に直面し、何とかしようとするのだが、意思とは裏腹に、私が課すエクササイズに取り組むことが出来なくなってしまう。結果、拒否反応として泣く。

きょう取り上げるのは②のケースである。

レッスンが進んでくると「心を開放できない」という問題が、進歩を阻むという段階にぶつかる。自分をさらけ出せないのである。我々は「割れない」という言葉で表現する。

それまでのエクササイズを一応無難にこなしてきているが、この根本問題が解決しないために、「作り声」「作り台詞」となり、加えて「喋り切る」ということも出来ない状態に陥る。

そこで少々荒っぽいエクササイズが必要となる。こうなると理屈もへったくれもない。ただ「飛び込ませる」だけ。
ただし私は生徒を叱りつけたり、嚇したりして、追い詰めるという方法は取らない。あくまでも問題点を克服するためのエクササイズを課す。
このレッスンの最中に一人の生徒が涙を流し続けたまま、立ち往生してしまったのである。解決方法の糸口として「ヤクザの姉御」の言い回しを、私の口真似でさせてみる。

類型的であるが、役の型に飛び込み、表現を前に出させる苦肉の手段。よく日本映画などで見かけられる凄みのある一言台詞を言わせる。しかし生徒は一言も発せず、「涙の棒立ち」となった。数分にらみ合いが続き、ついに時間切れで次回に持ち越し。

そして翌週。今度は選挙カーに乗った候補者演説の言い回しから始める。椅子の上に立たせ、ペンをマイクに見立てて、私が行う即興台詞の口真似をさせようと試みる。

1週間の猶予でその生徒も覚悟がついたのか、今度は泣きもせず、このエクスサイズに全力で取り組んでくる。

その後も別の即興の言い回しを繰り返し、とにかく「表現を前に出し」、「割る」ためのエクササイズを続ける。これらをひとしきり終えた後、元の台詞と演技課題に戻った。進歩あり。良くなった。この間15分程である。

グループレッスンだから個人にかける時間は短い。しかしこの生徒にとって己と格闘した死闘の15分であり、終わってみれば疲労困憊の態を見せている。もちろん私もクタクタ。

演技とは「自分として生きること」であり、台詞とは「自らを語ること」。そのための値千金の一歩前進だった。

2005年05月13日