羽鳥塾の稽古7型(かた)すなわち技(わざ)前編
前回「ローマ狂言一座に学ぶもの」を書いた。狂言は様式を持つ。習得の修行に幾年もかかる「型」を身につけ、俳優は作品が求める内面の心情・感情、或いは意識を「型」を通じて表現しなければならない。「外(そと)」と「内(うち)」との融合である。
イタリア人学生たちは異文化である狂言という様式・型を損なうことなく、自らが表現したいものを強く、そして意欲的に体現しようとした。様式は足枷にならず、表現する媒体として駆使されたのである。
プロや見巧者から見れば、彼らの狂言の演技に問題はあるだろう。しかし私は舞台表現者としてのイタリア人学生たちの中に外と内の融合を見た。
では伝統芸能に存在する様式・型に相当するものを、現代の俳優達は必要としないのであろうか。
「リアリティー」とはよく耳にする言葉だ。稽古場では言葉を変え、「もっと自然にできない?」等々、演技への注文として使われたりする。
しかしリアリティーは自然(ナチュラリティー)とは違う。それは「真実」であり、狂言のみならず、歌舞伎や能の「型」の中にも存在する。真実が無ければ、伝統芸能といえども感動するものではない。
そして「型」を通じて表現される真実は類型ではなく「典型」なのである。人間の営みにおける喜怒哀楽の真実が「典型」として表現される。社会と個人とに揺れる男の心情、男を愛する女の心情等々、我々が日々直面している情感の真実を、俳優は生身の人間として舞台上でさらす。
伝統芸能の演者たちの間では「型が先か、心が先か」の議論がなされることがあるという。さもありなん。「鶏が先か、卵が先か」と類似し、結論は出ない。言えることはただ一つ。「どちらも欠かせない」。
確かに今の時代に生き、今の言葉で語る俳優達の表現方法において、リアリティー以外の共通認識としての「型」はないように思える。しかし己の表現方法としての「型」は必要であり、それを追求していくのが俳優道ではないだろうか。
「どのようにすれば登場人物の思いや意識が観客に伝わるのか」。舞台に限らずテレビや映画でも、名優と言われる俳優は独自の「型」を持っている。「スタイル」と言い替えてもいい。
それは観客に、或いは視聴者、鑑賞者に、表現を届かせ、彼らを納得せしめる「何か」である。名優は意識するとしないとにかかわらず、「型」を持っている。