羽鳥塾の稽古8型(かた)すなわち技(わざ)後編

台詞 ②心の動き ③体の動き 羽鳥塾ではこの3つを一致させるレッスンに入った。
腹式発声の基本に従い、立って台詞を言っていた生徒達は、動きがついた途端、途方にくれる。内面のリアリティーに支えられた動きを表現できない。ただ歩くことさえも。
それまでの発声中心の台詞レッスンが、ただの演技の一部でしかなかったことを自覚する時だ。

独白でさえ「意識や情感の流れ」で舞台上を動き、表現されなければならないことはもちろんだが、例えば舞台上に2人の登場人物がいれば、彼らは「交流の力学」で動かなければならない。

舞台上での動きは全て「意味を持つ」シンプルな表現であるべきだ。余計な動作があってはならない。心の動きと体の動き、そして台詞を一致させる「技(わざ)」。これが日本の伝統芸能には「型」として存在する。見事。

私が「その歩き方は変だ。心の動きと合っていない」と真似てみせると、「そんなおかしな動きしてますか?」と、レッスン生たちは心外な顔つきをする。彼らは内面の働きのまま自然に動いている「つもり」だ。しかし、「俳優の自然は観客の自然ではない」。


生徒達はそれに早く気がつき、観客に違和感なく、演技をとらえるためにはどうすればいいかを追及しなければならない。

内面を表現するための自分の動きを「自然に見える型」として創造し、肉体に刻んでいくことが必要なのである。「己(おのれ)の型の確立」。それが舞台での「リアリティー」へとつながっていく。

「物言い」も同様。台詞が早口な生徒がいる。彼は普段も早口。自分にとってはリアルだが、観客は彼が何を喋っているかわからない。舞台上での動きもせせこましい。

台詞は観客に登場人物の心の動きだけではなく、作品のストーリーを知らせる大切なツールである。体の動きはそれをさらに増幅させてくれる重要なアイテム。

観客には登場人物の心の動きと作品のストーリーを知る権利があり、俳優はそれらを知らせる義務がある。義務を放棄してはいけない。だから俳優には表現技術としての「型」、すなわち「技(わざ)」が必要なのである。

「ローマ狂言一座に学ぶもの」で繰り返し述べた「表現したいという欲望・意欲」を強く持つ一方で、技(わざ)を磨く。発声の技、情感を喚起する技、身体表現の技。技(わざ)を駆使し、自分の内面に起こっていることを観客に届ける。これが俳優の仕事である。

もう一度言う。自分のリアルが観客のリアルではない。観客に自然に見えることは必要だが、それは必ずしも俳優自身が自然にいることではない。

2006年01月20日