肉体に刻み込む マグマ
テキストの通りに台詞を言えない生徒が少なくない。間違えて覚えていても平気の平左だ。
「台詞が正確に覚えられなくて」とはよく聞く言葉だ。しかし台詞は覚えるものではない。体に刻み込むものだ
台詞そのものは演技のうちの一部でしかなく、出口に過ぎない。肝心なのはそれ以前の段階にある。
しかし観客に「物語の筋を伝える」という意味では、台詞は大きな役割を担う。出口を誤れば、それまでの苦労、努力が全て水の泡。
先日読んだある雑誌に、元映画俳優だった料理人の話が載っていた。若い頃、彼はロケ先で台詞が覚えられずを連発。困った末、共演していた大女優さんに相談した。返ってきた答えはこうだ。
「台詞なんて千回も言えば覚えられるわよ。私は目、耳、舌、身体と五感のすべてを使って臓腑に叩き込むようにして覚えたわ」。
…千回…。彼は雑誌の中でこう続ける。
「決められた台本というマニュアルでも、体に徹底して叩き込めば自然に操れる。けれどその徹底して叩き込むというのがほとんどできない。
体に刻み込んだことは忘れない。自転車に乗る、泳ぐ。小さい頃に体で覚えたことは大人になっても忘れない。
肉体表現として演技をとらえること。テキスト(台本)を読み解き、登場人物が体験したであろうことを想像力を使い、自らの体験として「実際に体を動かし具体的に演じてみる」。
マイムで構わない。そのことで起こってくる感情を体験しておくことは役作りに非常に有効だ。
こういった準備を繰り返す中で、テキストを何度も読み返し、「役の心情」をストーリー展開の中でつかんでいく。やがて各シチュエーションでの「心の置き所」が定まるだろう。
次に台詞を体に刻み込む。登場人物や台詞の解釈は確かに必要。だがそれだけでは肉体表現に至らない。「役の心情」をつかみ、「心の置き所」が定まった上で、台詞一つ一つの言葉の持っているイメージとボリュームを体に刻んでいく。雰囲気にならずに台詞を具体的なイメージでとらえていかなければならない。
「手切り」、「仕分けのマイム」、「イメージのマイム」を駆使して台詞の内容・意味を取りながら、「伝えたい」という強い意思を持ち、腹式の発声で何度も何度も台詞をしゃべり、体に刻み込む。
台詞や演技が己の血や肉となり、全身の細胞から発せられるような肉体のメカニズムを一旦作り上げておく。その結果、「マグマ」が意識の奥底に沈殿するであろう。応えたい、訴えたい、表現したいという「衝動」だ。だがその存在は一時忘れてしまって構わない。
やがてあることをきっかけに「マグマ」は噴出する。「あること」とは、すなわち他の登場人物や状況、事件等々、外部からの「働きかけ」である。想念だってきっかけになる。
俳優は「アクター(行動する人)」というよりも、「働きかけ」に対する「リ・アクター(反応する人)と言うにふさわしい