表現への意欲~大きな表現
随分昔のことだが、小劇場系のお芝居を観ていた頃、帰路、不思議と元気になっている自分に気づいたことがある。発声に関して言えば、何人かの俳優の怒声は頂けないし、時として何を言っているか分からず閉口したことも多かったが、彼らにはほとばしるような「表現したい!」というエネルギーがあった。
舞台俳優は観客に「想いを届ける」という原点から見れば、私は小劇場の出演者達から「熱い想い」を受け取り、結果、身内に活力がみなぎったのは事実だ。上手い、下手ではなかった。
舞台俳優が持っているべきものの一つが「表現への意欲」。「人に訴えかける力」だ。
「俳優の仕事とは、作家の書いた文体に肉体と声を貸すこと」。35年前、芝居の勉強を始めた頃に教わり、セピア色に色褪せたノートに書かれたこの言葉を、今でも時折読み返す。
私はこう言い換えて俳優を指導している。「台本に書かれてあることを、力の限りを尽くして客席に届けろ」。「力の限りを尽くして」とは、技術はもちろんだが、俳優の魂の喚起も含んでいる。
俳優とは「行動する人」である。しかし舞台上で登場人物が淡々と行動しているだけで、果たして観客は感動するか? 「芝居が小さい! もっと大きな芝居をしろ!」は、今でもあちこちの稽古場で演出家が俳優を鍛えている言葉だろう。
では、どうすれば大きな表現ができるのか。
一つの考え方がある。
「登場人物が何を代表しているのか」を掴むことである。
ひと昔前の通俗的な例を出す。結婚に関する父と息子の親子喧嘩。「家の中の小さな世界」が舞台だ。だが、結婚が家同士のつながりであり、個人の選択を認めない「社会」の問題と考える父親と、自由意思に基づく「個人」の問題と主張する息子の対立となれば、事は「家の中の小さな問題」とはならない。
父親は「保守」と「封建」を、息子は「革新」や「自由」をそれぞれ背負い、社会全体、人間全般の話となる。この「対立」構造を作家はストーリーの中で描き、演出家が舞台に露見させる。俳優は対立構造のそれぞれの「代表」として演じるのだ。背負っているものは真に大きい。
「世界の中心に向かって愛を叫ぶ」という本があったと思うが、私はこのタイトルをもじって「代表者として、世界の中心に向かって訴えろ!」と俳優を指導している。
このアドバイスで、「大きな表現」に近づく俳優は多い。もはや俳優個人の問題ではなくなり、自分に拘泥している暇がなくなるからだ。俳優は作家の代弁者となり、社会全体、人間全般の問題として演ずる。演技のスケールが大きくなるのだ。
しかし発声や台詞の基本技術、感情のコントロールが未熟な俳優には効果がないアドバイスである。ただ力が入り、時に怒声となる。
だからやはり技術は磨かなくてはならない。それと同時に「表現するという意志の強さ」も鍛えるのだ。鍛えて、鍛えて、鍛えたものを観客にお見せするのが俳優の仕事。
作家は書かずにいられないから書き、俳優は伝えずにはいられないから演ずる。観客は喜びや感動を得たいがため劇場に足を運ぶ。
演劇は真(まこと)に誇り高い。