教師のためのワークショップ in 東京 後編
それを聞き終わると、私は「先程、ご自分の悩みを皆さんに訴えたように、もう一度語りかけて下さい」。
一瞬ポカンとされた後、S先生は壇上を降り、ご自分の席に戻られると、生徒が自分の指示に従わないという悩みを再び訴える。・・・その説得力のあること・・・!
彼の想いは我々の心にダイレクトに響いてくる。それから再度、彼は壇上に昇り、再び「教師」となり「みんな、静かにして!~~~」と指示を出す。
このように同じことが二度繰り返されると、成り行きを見守っていた他の先生方の中にも真実が見えてくる。
自分の悩みをとうとうと訴えるS先生と、生徒に呼びかけるS先生とが、明らかに「別人」なのだ。前者は血の通った人間であり、後者は指示を「音」として発する「先生」という仮面をかぶった人となっている。
駅のホームでよく聞かれる構内アナウンスに近いと想像して頂くと分かりやすい。駅員の発する言葉にニュアンスはほとんどなく、感情や意思が込められていることは稀である。
S先生の生徒に向けて出す指示も血の通った人間が発するものとしてではなく、無意識ではあるにしても、権威を背景とした「類型的な音」として生徒の耳に届いているのではないか。指示を出す対象は生徒ひとり一人にではなく、生徒全体という「ひとまとめ」に向けられている。
S先生の内面の実(じつ)は「教師言葉という類型」に埋没し、生徒ひとり一人には届いてはいない。私はそう判断した。
大変失礼な分析ではある。しかし決して悪意、中傷あってのことではない。私のこの考えに一理あると認めて下さった先生も大勢いらした。そして何より、当のS先生ご本人がご理解、納得して下さった。
相手が個人であろうと複数であろうと、生徒に向き合う時には「実(じつ)を持って語りかけていく」ことこそが重要なのではないか。これが私の提起したテーマだった。
権威そのものが失墜しつつある現在、権威を背景にした物言いは、相手の心に響くことはない。何らかの恐怖や畏怖等を相手に抱かせるという特別な背景があれば別であるが。
この質疑応答では他の先生にも色々とご指導頂いた。その中には、今回取り上げた課題は「親密圏」の語り・話法を主としており、「公共圏」のそれとは差異があるのではないかというご意見があった。真に的を得たものである。
もし今後またこのような機会があれば、反省材料として生かし、修正・手直しをしたいと思う。しかし、今回参加して下さった教師の皆さん方は、何と個性豊かであったことか!俳優として舞台に立って欲しいほどだ。
「この先生は普段一体どんな人なんだろう?少しでもいいからその人生をのぞいてみたい」。そんな芝居屋の悪趣味がもたげて仕方なかった。
知り合いからご紹介頂いた大阪の高校教師が、今回お世話になった佐藤功先生。面白い人、飾らない人、内に秘めたる実践的知性と柔軟性を併せ持つ怪人。そしてロマンチスト。とにかく一言で語ることのできない奇人だ。
この方のご尽力によって実現したのが今回のワークショップ。教育現場を知らない私の随分生意気且つ勝手な物言い・振る舞いを容認して下さった。心から感謝申し上げる次第である。
本当に良い経験をさせて頂いた。さて、これが次なるどのような布石になっていくのであろうか。楽しみにしよう。